30歳からのADHD人生

双極性障害Ⅱ型、ADHD、人生生きづらくて空回りしてます。

飽き性について考えてみた

私は先日退職し、現在無職である。

日々次の職を探すために職務経歴書を書いている。

強みとして好奇心旺盛さでもアピールしようと思い文章を書いている時、

それって裏を返せば飽き性と捉えられないか、と不安になった。

 

飽き性。私はその言葉に凄くネガティブなイメージを持っているし、そんな自分を恥ずかしく思ったりする。

小さい頃から母が "継続は力なり" って言葉を大事にしていた。もしかしたらそれの影響を受けているのかもしれない。

だから、飽きずに一つのことをずっと続けられる人を尊敬していたし、

そんな人間になりたいって今でも憧れていたりする。

 

このように飽き性について考えると、グルグルと自責したり、飽き性でない人を羨んだりしてしまうのだ。

これは私の精神衛生上良くなさそうだな、と思いたち、今回一度飽き性について立ち止まって考えてみようと思ったわけである。

 

 

飽きるとは何が起こっているのか。

私にとって、飽きるとは、「それが同じことの繰り返しでつまらない、新鮮さがない状態」である。

正確に言うと、そのように私が感じている時に飽きている。

 

抽象的なので、飽きる対象を様々にして、具体的に考えてみる。

例えば、私は朝食にたんぱく質をしっかりとろうと、納豆を毎日食べることにした。もちろん初めは美味しい。だが、毎日毎日食べていると味に、食感に、鼻を通る匂いにうんざりする。そして納豆を見るだけでもうそれらが想像できるようになって、食べたくなくなる。ということがあった。

 

他には、ジムでの筋トレも2年程度週3回続いているが、正直もう飽きている。こちらはなかなか成果が出ないために、トレーニングの重量がなかなか変わらない、体つきもあまり変わらない、そういう変化のなさに飽きているのだ。

 

書いていて恥ずかしいが、具体的に書くことで下記のような幾つかの問題が見えてきた気がする。

・感覚の問題

・認知(捉え方)の問題

・工夫の問題

 

感覚の問題は、同じことが繰り返されているという感覚の鈍さである。納豆を毎日食べる時、その状況や納豆の状態、もしくは品種や味付けにおいて、全く同じことなどあるだろうか。もちろん私は色々な味の納豆を買ったり、アレンジレシピを作ったりもした。しかし、結局納豆のそういった違いを捉えられず、楽しめず、同じものだと感じるのだ。だから飽きるのではないか。飽きない人は違いを感じる感覚(五感)の鋭さを持っていて、日常の小さな変化を楽しんでいるのかもしれない。

 

認知(捉え方)の問題は、物事を考える際の切り口の少なさ(視野の狭さ)である。筋トレでいうと、私は筋肉をつけることだけが筋トレの目的で、それが自分の求めるレベルで変化しないと同じ事が繰り返されていると感じる。だが、飽きにくい人は、様々な切り口で筋トレを捉えることができる。例えば、筋力増加による体重の増加、テストステロン量の増加、姿勢の矯正など、多種多様な効果があり、それらから変化を見つけ出すことができる。

 

最後に工夫の問題だが、そのままで、工夫のレパートリーやネタの少なさの問題である。筋トレでいうと、筋トレの環境(いつどこで誰と)、メニュー(種類や使用器具、回数)、方法など工夫しろはまだまだあるはずなのに、工夫が思いつかなかったり、めんどくさくてやらなかったりする。

 

ということで、私が飽きるのには、感覚の鈍感さ・多面的思考の苦手さ・工夫の下手さが原因として考えられるのではないかということになった。最初の2つは観察力の低さとも言い換えられそう、、、

 

逆に飽きていない状態は「それには僅かでも変化があって、常に新鮮である状態」といえる。

上記3つを意識して飽きないように工夫したい。

 

本当はここから、「そもそも飽きるとは悪いことなのか」であるとか

「私の飽きるものと飽きないものの違い」とか「発達障害特性と飽き性との関係性」を考えていきたかったが、長すぎるのでやめておこう。